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エアーダイブ(以後 )
第六巻・七巻では、武部さんがモデルである「ゆかちゃん」の入院生活が描かれています。武部さんと橋先生は、実際にはいつ、どのように出会い、関わってこられたのでしょうか。 |
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武部 |
私は、生まれた当日に、橋先生が当時勤務されていた病院に救急車で運ばれました。そして、その日の夕方に手術を受けたと聞いています。
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橋 |
未来には二分脊椎症という先天的な疾患があって、さらにアーノルド・キアリ奇形と水頭症を併発し、呼吸状態が悪かった。だから一刻も早くシャント(※1)術や脊髄形成術などをする必要があった。その特殊性に対応できる医師ということで、俺に白羽の矢が立ったんだ。これが未来と俺の最初の出会い。
最初の手術後は約2週間で退院したけど、未来はかなり重篤な状況だったからその後もたびたび入院の必要があった。現在は新生児用のシャントが作られているけれど、あの頃はなかった。だからシャントチューブのトラブルも起きやすくて、それで入院することもあったし、成長に伴うシャントシステムやチューブ交換のための入院もあった。小さい頃は少なくとも年に1回は入院していたんじゃないかな。わりと頻繁に会っていたよな。
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武部 |
だから、私にとって橋先生は、お医者さんというより第二のお父さん。物心ついた時から近くにいてくれたので。
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橋 |
俺は、小さい未来が「帰る!」って病室で騒いでいたのが記憶にあるなあ。
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武部 |
だって、とにかく一日でも早く家に帰りたかったんです。特に学校に行くようになってからは、学校を休みたくなかった。「もう元気なのに、なんで自分はここにいるんだろう?」って思っていたから、ついつい騒いでしまったんでしょうね。 |
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橋 |
子どもの頃はそんなものさ。俺も、あんまり学校を休ませたくなかった。だから調子が良くなったらできるだけ早く退院させていたんだ。
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武部 |
そうだったんですね。一回ごとの入院期間が短かったから、私も両親もずっと、自分たちの置かれた状況がそこまで大変だとは思っていませんでした。先生は行動制限を一切しなかった。母が問い合わせても、かえって「心配ない。大丈夫。なんでもやってみたらいい」と励ましてくださったと聞いています。もちろん心配はありましたけど、「何か起きても先生がすぐなんとかしてくれる」と私も両親も思っていたので、周りの子ども達と同じように暮らしていました。今思うと自分でもびっくりですけど、でんぐり返しやマット運動なんかもバンバンしていたんですよ。
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橋 |
俺は、未来に「普通」にしていてほしかったんだ。行動制限して現状維持じゃ、状況が良い方に向かうこともない。だからあまり深刻に考えず、いろいろなことに挑戦して、刺激を受けてほしかった。
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武部 |
先生は、私や両親がシャントの存在を意識し過ぎないよう配慮してくれました。そうした先生の思いに気付いたきっかけが、橋先生以外の医師の手術を受けたことでした。その手術で麻痺が起きてしまって、初めて私のシャント手術がとても難易度が高い手術だということを知ったんです。先生がいらっしゃったからこそ私はのびのび成長することができたんですよね。橋先生は生きていくためにかけがえのない方で、この出会いは本当に幸運だったと感じています。
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橋 |
それはうれしいね。
現在のシャントはかなり進化していて、システムの改良で、携帯電話などの電磁波の影響を受けにくくなっているんだよ。未来の頭の中には今もシャントが入っているけど、生活していて不便を感じることはあまりないんじゃないかい?
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武部 |
はい。意識すること自体、少ないですね。携帯電話はシャントの入っている位置から少し離して使うようにはしていますが、それも念のため。時々頭痛が起きることはありますが、生活の上で支障になることは、ほぼないと言っていいです。
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※1 脳の圧迫を防ぐために、脳室に過剰に溜まった髄液をチューブなどで他の場所へ逃す医療器具
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