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エアーダイブ(以後 )
こうして母校で3人が集うのはとても久しぶりのことだそうですね。
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煖エ |
3人で会うのは50年ぶりくらいだよな。
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飯田 |
それぞれに忙しいし、『義男の空』という漫画が存在しなければこうして、一同に会する機会はなかっただろうなあ。
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小菅 |
しかもこうして母校で会えるなんてな。感慨深いね。
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煖エ |
そうだな。活躍ぶりは人づてに聞いていたよ。飯田は関東の本社から戻ってきて、子会社の代表取締役として忙しくしているんだろ?小菅は個々の動物が持つ能力を人々に見せる行動展示を実施して、旭山動物園を日本一の動物園と言われるまでに立て直した。2人の頑張りに刺激をもらっていたよ。
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小菅 |
義男も「子どもの魔術師」と呼ばれる医師になり、立派な業績を残していて、すごいなと思っていたよ。しかし、みんながこんな風に社会で力を発揮するようになるなんて高校時代には全く想像もしていなかったな。いつも教室では「後ろの方」にいたのにな。
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飯田 |
教室の前方の席はまじめ。後方は授業なんか聞いてないやつら。オレたちは常に後方の席だったもんな。
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煖エ |
そうだったな、懐かしい。俺と飯田は3年で同じクラスになって知り合ったんだよな。小菅と飯田は元々友達だったけど、何がきっかけで親しくなったんだ?
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飯田 |
オレたちには貸本屋の息子っていう共通の友人がいたんだ。そいつんちで一緒に白戸三平(※)のマンガを読んでいたのが知り合ったきっかけ。実は、同じクラスになったことは一回もないんだよ。
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小菅 |
飯田は今じゃ穏やかな感じだけど、あの頃は天然パーマで、体もでかくてもっと迫力があってな。で、あんまりしゃべらなかった。
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飯田 |
小菅なんかオレよりもっとしゃべらなかっただろ。言いたいことがあるとひじで突っついてきて、「飯田、お前がしゃべれ」だもの。
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小菅 |
オレ、授業中に先生に当てられて教科書を音読し |
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た時に、声が小さすぎて「もう一回読め」って言われたことがあったんだ。それに「読んでます」って答えたのがたぶん、オレの高校時代の教室内での唯一の公式発言。そのくらい無口だった。
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煖エ |
無口で硬派だったな。そんな2人が、今じゃしゃべりが上手になったな。
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飯田 |
お前だって人のこと言えないよ。義男は目立ってはいたけど、おしゃべりなタイプじゃなかった。唇尖らせて「ちがうべや〜」ってぶつぶつ言ってた記憶はあるけどなあ。グラウンドではよく一人で練習していて、最初はちょっと、とっつきづらいやつなのかなって思ったもんだよ。そういえば、義男はなんでラグビー部に入ったんだ?
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煖エ |
入学してすぐに、グラウンドを歩いているところを勧誘されたのさ。入部の時は軽い気持ちだった。でも先輩の代から一度も勝てたことがなくて、悔しくてね。とにかく一勝が欲しかった。勝てない大きな理由がフォワードの弱さ。だから体の大きかった飯田に助っ人を頼んで、ほかにも当たり負けしない体格のいいやつを連れてきてくれってお願いしたんだ。
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飯田 |
あの頃はほかの部活動への助っ人っていうのは珍しくなかった。オレは夏で部活動を引退して体力が余っていたし、家にいても暇だしで、軽い気持ちで引き受けたんだ。小菅も同じく、すでに最後の大会が終わっていたから声を掛けた。2つ返事で引き受けてくれたよな。
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小菅 |
オレ、ラグビー部の存在すら知らなかったのにな(笑)。義男のことも知らなかった。なにせ生徒数が多すぎただろ。同級生でも知らないやつがいるのが普通。今思うと、本当に混沌とした時代だったな。でもさ、あの頃は親しいも親しくないも関係なく、
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頼ってこられたら助けるのが当たり前だった。「人生、意気に感ず」っていう言葉があるけど、振り返るとあの時代はそんな空気感で満ちていた。相手の心意気を受け止めて「やろうぜ」って一緒に戦う。人同士の支え合いが自然に行われていた。
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煖エ |
そうだな。若さもあると思うけれど、頼ったら理屈じゃなく「わかった!」って言ってくれる気概のあるやつらが多かった印象がある。そういうあたたかいつながりから始まって一緒に戦った仲間と、時間を経てこうして母校で再会できたのはとてもうれしいし、深い縁を感じるよな。
※白戸三平/「カムイ伝」「忍者武芸帳」「サスケ」など忍者を扱った作品で人気を博した漫画家
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