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【田中】 瑞穂さんは、年末年始の慌ただしい中でも、
標君の状況を細かく手帳に記入されていましたね。
その分、書くことがなくなっていった、
というエピソードが印象的でした。 |
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瑞穂
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もともとは、標の裂脳症のリハビリの予定などを忘れないようにと始めたものでした。やがて先生からの説明を父ちゃんにきちんと伝えられるように、細かく書き留めるようになりました。でも感染症と診断されて、年末に隔離病棟に移ってからは毎日が同じことの繰り返しで、治療の内容も標の経過も、本当に何も書くことがなくなってしまったんです。私も病室から出られず、ただじっと標と向き合っているだけでした。そのうち父ちゃんが「なにかおかしい、このままじゃ駄目だ」と気づいて、もう一度「高橋先生のところに行こう」と言ったら、ようやく標が頷いたんです。
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高橋 |
俺たちの治療は、たとえ場所が離れていても、家族ともども一緒にやっている。だから、どこかうまくかみ合っている。ギリギリの状態で標の父さんから電話をもらったときも、必ずやれることはあると思った。
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瑞穂 |
開口一番、「もっと早く言え。なんでそんなになるまで我慢させた」って、怒られましたよね。父ちゃんが公衆電話で高橋先生に事情を話して、「そっちの病院にかけ直す」と言われて診察室に戻ったら、もう帯広の先生と電話がつながっていて。高橋先生の行動の早さには本当に驚かされました。高橋先生のところに移ることになった時も、まさかヘリを飛ばしてくれるとは思いませんでした。
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高橋 |
実は、あの頃はまだドクターヘリというものがなくて、実際はいろんなところに頼んでヘリを飛ばしてもらったんだ。
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瑞穂 |
ヘリの中でダイヤモンドダストを見たとき、心がホッと軽くなったのを覚えています。景色を見る余裕ができたんですね。きれいなサンピラーも見えて、希望がわいてきて、「標はこれで大丈夫だ」という確信を持ちました。
それまで標は38度の熱が続いていたのですが、高橋先生の処置が終わったらすぐに平熱に戻っていました。帯広では感染症と診断されて、隔離されていたのに、高橋先生は「こんなの、なんでもない」と言ってくれて。それまでの苦しみがまるで嘘のように、標はどんどん良くなっていきました。
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高橋 |
戦略がうまくはまって、たまたまいい結果が出たということ。標の状況を悪くしている原因はなんとなく見当がついていたし、感染症にもかかっていたけれど、肺炎からシャントへの二次感染などは経験があったからね。
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瑞穂 |
あのことから、標はすごく強くなりました。体力もついて、高橋先生の予告どおりシャントも抜けました。
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高橋 |
それは母さんの力が大きい。食べ物や食べ方も、あまり神経質にならずどんどん食べさせていたしね。
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瑞穂 |
むせることも多かったんですが、標は頑張って食べていました。今考えると、「あれも、肺炎の原因の一つだったのかなー」って思ったりしますが(笑)
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