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漫画には、お二人が函館から健典君のもとに通う車中の様子が度々出てきます。車で何時間もかけて通われるのは、心身ともに大変な負担だったのではないでしょうか? |
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恵子 |
あの頃は健典のことを何とかしたいと必死でした。とにかく「会いたい」の一心で、亡くなるまでの8カ月間、函館から通い続けました。
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英次 |
僕は1週間に1度でしたが、恵子はその合間に自分で車を運転して行くこともありました。最初は函館に置いてきていた長男も、「顔を見るだけでもいいから、会わせてやりたい」と、家族みんなで通うようになりました。
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高橋 |
病院の近くに住んでいても、会いに来ない家族はたくさんいたんだ。それなのに、函館からあれだけの頻度で通い続けるというのはものすごい情熱があったということ。健典も、そのことをちゃんとわかっていてくれたはずだよ。
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恵子 |
他の先生からは、現時点での治療法はないと言われて、「何で、何で !?」と泣いてばかりでした。たった8カ月が、何年も、何十年もあるように感じられました。
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高橋 |
当時は、患者の全身状態が良くないと麻酔はかけられないという時代だった。だから、重度の障がいのある子どもには積極的な治療をしない、というのが一般的だったんだ。
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英次 |
内科では何もすることがないと言われ、絶望していた時、先生から「会って話がしたい」と連絡をもらいました。どんな話をされるのか想像もつかないまま会いに行くと、「少しでも状態を良くするために、手術を受けてみないか」ということで、正直驚きました。それまでは「あきらめて」と言われてばかりでしたから。あの時、先生が言ってくれた「1%の希望にかけてみないか」という言葉が、すごく心に響いたんです。1%でも可能性があると言われたら、それにかけてみようと思うのは親として当然ですよね。「一緒にやりましょう」と言われて、「この先生のことを信じよう!」と迷わず決断できたんです。
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高橋 |
俺がいつも大切にしているのは、「みんなで一緒にやろう」という気持ち。本人はもちろん、親も医者もみんなチームの仲間。少しでもできることがあるなら、みんなで努力しよう、というのが基本なんだ。
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恵子 |
あの時の先生との会話は、つい昨日のことのように、はっきりと覚えています。私たちのように、重い病気の子どもを持つ親は、先生の力強い言葉に救われるのだと思います。「きっとこの先生なら、いい方向に導いてくれる」って。
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高橋 |
当時はまだ俺も若くて、生意気な盛りで(笑)。成人の脳神経医療を経験した後、子どもの分野に入ってきたところだった。健典は確かにすごい重症だったけれど、俺の経験上、手術しても悪くなることはないと思っていた。むしろ、それしかこの危機的状況を抜け出す方法はないと考えたんだ。
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恵子 |
先生にはマッサージで刺激する方法を教えてもらったりしました。どの先生も「無理をしないように」と言うなかで、高橋先生だけが積極的に動いてくれました。
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高橋 |
その頃の北海道の小児医療は遅れていて、重症の子どもは無理をしないで寝かしておくというのが常識だったんだ。
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英次 |
そういえば、先生は「立てー」と言いながら、隣のベッドの子どもを立たせていましたね。今でも覚えていますよ(笑)。
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